神道とは一体何か?

一言で述べなさいと言われれば「私たちの祖先によって、縄文時代よりも以前遥か昔からこの気候温暖で山河や海浜の自然が美しい日本の大地だからこそ生まれた自然崇拝(アニミズム)の想い」だと言えます。太陽や月や星の様な天体をも含めて森羅万象あらゆるものに「畏敬」の念と「感謝」の気持ちから全てのものに神が存在するという想いがその基です。ですから日本では八百万の神々と称して草や花や木々も水の一滴をもそれは神様なのだと敬愛し、それらの想いが極自然に「共有」され長い歴史の中で、親から子、子から孫へと連綿として受け継がれ育まれてきたのです。その思いそのものが「神道」と言って良いと私は思います。

「畏敬」という言葉を述べましたが「畏」とは 鞭を持って叱るという語源なのですが、そこから「恐れる→畏まる(かしこまる)→畏れ入る(おそれいる)」という意味になっていますね。それに「敬う」を加えて「畏敬」となるわけです。

そしてその「畏敬」の基に「感謝」の想いを込めて暮らしていく!それが「神道」なのです。

「大自然」への畏敬と感謝から生まれたごく自然な感情が「神道」です!!!

ですから「神道」は宗教ではないのでどんな宗教のお方でも

ああ!日本人の心の故郷なんだなぁ!とそう思って頂ければ本当にうれしい限りです。

「神道」は自然崇拝が源である!ということを具体的に示す物がありますが、それを説明しましょう。神社の本殿や皆さんのお家の神棚には「しめ縄」が在りますよね!? あの稲わらを捻じって太い紐状にした物です。私たち日本人は大昔から米(稲作)を主食として生命を繋いできました。その稲を大切に神様に飾ってその中程に「御幣」という白い細い紙を数枚結えて垂らしますね。あの白い紙の形は「稲妻=稲光」なのです。空からの閃光という形を表しています。何故、稲光を飾るのかお分かりでしょうか? そうです!昔の人は自然に

解していたのですね雷が鳴って落雷したりすると窒素が一面に増えるのでそれは稲作はじめ農事にはとても貴重な肥料なのです。ですから、そうして感謝の意を込めて飾ってきたのです。稲光は新しいものを生む!ここから稲妻という文字も出来たのですね。新しい命を頂くという意味がよく分かりますね。

私は仏教徒で東本願寺の教徒ですがキリスト教会に出かけて讃美歌を歌いますし、毎朝、敬虔なクリスチャンのお方のメルマガを拝しては涙を流して感動しています。また、異なる宗派の禅宗の「道元禅師」のみ教えには心震えます。更に 真言宗の祖師、弘法大師空海の修行の場とされた「四国八十八カ所巡礼」は8歳の折に徒歩で母とお参りをしております。今は「阿弥陀経」を暗唱しようと努めていますが何しろ難しくて長いので四苦八苦しております。勿論、近所に氏神さまの社が在りますのでそこは住まいからも観られるので必ず低頭をして「有難うございます」と一言でもお礼を述べています。

神道は狭義で言えば 火の神様・海の神様・・・とまさに八百万の神々がいらして、例えば

航海の安全には宗像三女神さまにお参りする、という様なこともありますが、本質的にはその社のご祭神を通して八百万の神々に「畏敬」と「感謝」の念を捧げてお礼をするということが神道のまさに「道」です。 神社は大きく分けて二つに区分けされます。それは自分が生まれた地域の神社=産土神(うぶすながみ)と、そしてそこを離れて今暮らしている地域の神社=氏神(うじがみ)との二つです。多くのお家では神棚には天照大御神の御札の他に氏神やお参り行って頂いてきたその神様の御札を祀ることが多いですね。八百万の神々に感謝を表して朝夕に拝してお礼を伝えて暮らすことは美しい所作です。

「お礼」の想いこそが基です。「お礼」は「お願い」ではないのでここはしっかりと分けるべき点です。「お願い・希望」ばかりを願うのではなくて、もし願うならば

「私はこのことを成すことでこの様にして世のため人のために成ります!心して尽くしますからお導きをお願い申し上げます!」と「決意」を述べることが良いのだろうと思います。

「神様のお手伝いをさせて下さい」という決意ですね。純真な決意!の一心です。

私は若いころに父親と奥深い山に入って林業そのものを手伝っていたことがあります。その山仕事を終えて下山するとどの村にも小さな社(祠の様な社もあります)があって父親は必ずそこで深く頭を下げてお礼の言葉を告げて夕陽に染まる小路を歩んで帰路に着きましたが、その姿が今も美しくうかんできます。勿論、朝に山に入る時もまさに「畏敬」と「感謝」の想いを込めて柏手を打っていました。父親は起床して顔を洗う時には洗面器のその水に柏手を打って「今日もありがとうございます。目の神様ありがとうございます。」と伝えて最初に目に水を優しくかけて次に鼻に注いでいました。そして朝日に向かって柏手を打って深く礼拝をしていました。

こういう姿は、昔はどこの家でも見かけられるものでした。皆が大自然を敬愛していたのです。そこに神を見ていたのですね。こういう敬虔な様子はもう今では見られなくなりましたが寂しいことだと思います。 これが「神道」なのです。そしてこの「神道」は日本にしかないということを心にしっかりと留めておいてください。

「神道」と同じ意味合いの言葉で「惟神(かんながら)の道」という言葉も時折見聞きします。これは「惟神」=神さながら→神様と同じように という意味なのですね。

つまり「惟神の道」=「神道」とは神と同じように穢れの無い、清く正しく潔い生き方を示す指針!と言って良いのではないかと私は思います。

では、その神とは?ということになりますが、例えば「太陽」を例に挙げますと太陽は影日向なく誰にも何に対してもその光と温かさ与えます!正に「遍照」=遍く照らす!!のです。善悪・是非・好き嫌いなど一切の差異無く公平に降り注ぎます。

そしてこの果てしなく広がる大宇宙と肉体という小宇宙の不思議な摂理! 目を開くと一瞬にして物が見えるというこの不思議さ! 宇宙の広さよりももっと遠い広いことまで考えられる脳のこと、更に光よりももっと速く考えられる脳の力、この不思議いっぱいのワンダーランド!この環境そのままが「神の国」なのです。私たちは月にまで到達出来るまでに成っていますが野に咲くタンポポの種一つさえ作れはしません。誰が作ったのでしょう?しかもその季節になると咲いて迎えてくれます。

村上和雄博士の言葉をお借りしますが 神とはSomething Greatとしか言いようが無いのです。私の様に天空に龍を観た者には、どう言われても神・Something Greatは存在するので 神はまさに「畏敬」の存在そのものです。金子みすずさんの詩歌ではありませんが

「見えないものでも あるんだよ・・・」なのですね

古神道という言葉を見聞きしますが、それは日本に仏教が渡ってくる前の神道のことを言います。仏教が入ってきてからは、これがまたそこに日本らしさが活かされるのです。それは全てを否定するのではなくて採り入れるべき良いものは大いに取り込んで新しいものを作ってきた日本文化のある一面の歩みです。それが現在 神道と呼ばれているものですね。神仏混合と言われるものです。神社の境内の中にお寺が有ったりしますね。神様も例えば市杵島姫命は弁財天さまになったり 天之御中主命が大日如来さまになったりと、まさに神様仏様!と敬うようになっていますね。神社とお寺との区分けが分からないというお方もいらっしゃるし特に外国の方々には難しいことと思いますのでそのことは別の機会にします。

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