昭和天皇の御巡幸Ⅱ

佐賀県圓通寺院内での陛下と孤児たちとのお話は心震えるものですが

まだお話は続きます

今度は戦死をした息子の母親と陛下との心の語らいです。

陛下はお寺を出られ歩みを進められると「戦死者遺族の席」の前で足を止められて

一番前に座っている老婆に声を掛けられます。

「どなたが戦死されたのか?」

「息子でございます。たった一人の息子でございます。」

「どこで戦死をされたのか?」

「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最期に天皇陛下万歳を言って

戦死したそうです。でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。天皇陛下さま息子は今頃どこに

おるのでしょうか?天皇陛下さま 息子の命は貴方様に差し上げております。息子の命のためにも天皇陛下さま 長生きしてください。」

この老婆の言葉をお聞きになって陛下の両方の目から涙が頬を伝わっていました。

天皇陛下と母君貞明上皇后さま

天皇陛下は実に三度も割腹自刃を計っておられました・・・しかしながら貞明さまの大御心によって改心なされたのです

貞明さまは高台にあって東京の市中が望める「皇霊殿」に陛下をお招きになられました。

そこからは焼けただれ一日千秋の思いで我が子の復員を待つ親たちの姿も見えるのであります。貞明さまは陛下にその様子をお見せになり 「陛下 国民は陛下の不徳によってこのように辛い思いをしております この国を一日も早う復興しようとなさらず切腹をしようなどとはご卑怯ではありませんか!退位は決してなりません。」

陛下は母君の前で頭を垂れて泣かれたそうです。

「どうしたらいいのか・・・」と

「陛下の万歳を唱えて死んでいった護国の英霊の労苦を労いなさい。遺族の労苦を労いなさい。産業戦士の労苦を労いなさい。」

このことが陛下の全国御巡幸につながっていったのです。

貞明さまは毎日戦死者のお名前を10名ずつお書きになりながらお経を挙げてお亡くなりになるまで雨漏りがする防空壕の中でその生涯をおおくりになられました。

御巡幸は8年半 終戦の翌年昭和21年から29年にかけて 33000キロ

一日200キロの超過密の陛下と国民とのドラマでした。

これら昭和天皇の御巡幸に関してのことは、6年ほど前に飛騨で神官を務めていた兄の勧めで伊勢神宮での研修会に参加した折に講師のお話を耳にして涙を拭きながらメモに書いていたものです。共に拝聴していた皆さんも泣いていました。

「ねずさんの学ぼう日本」というブログにはより詳しく記されていますのでご覧ください。

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